開国の父 老中・松平忠固
開国の父 老中・松平忠固

お知らせ

18歳で上田藩主、36歳で老中に

松平忠固は、文化9年(1812年)7月11日、姫路藩酒井家の二男として江戸で誕生。

17歳の時に上田藩主・松平忠学の養子となり、18歳で家督を継ぎ上田藩主となり上田に初入部します。

22歳で奏者番という役職に就き公儀(幕府)の出世ルートに乗り、26歳で寺社奉行就任と順調に出世します。

在任中にアヘン戦争が勃発、忠固(忠優)は進んだ西洋技術を取り入れて対抗する方針を主張するも、蘭学者を処罰した(蛮社の獄)目付・鳥居耀蔵らと対立、31歳で政争に敗れ寺社奉行を罷免させられます。

ところが翌年、年下の同僚だった阿部正弘が老中首座に抜擢されるのと時を同じくして寺社奉行に復活。

すぐに大阪城代へ出世、36歳で出世レースの頂点である老中に上り詰め、海防掛(外務・防衛大臣)を兼任します。

 

 

 

ペリー来航、日米和親条約締結

5年後の嘉永6年(1853年)ペリーが来航。

忠固や阿部ら政権首脳は1年前からその情報をキャッチ、準備を進めていました。

翌年、非常に友好的な内容で日米和親条約を締結します。

矢継ぎ早に海軍伝習所(後の海軍)、講武所(後の陸軍)、洋学所(後の東大)の設置に漕ぎつけたところで、攘夷派の首領・水戸家徳川斉昭らに配慮する形で忠固(忠優)は老中を辞任。

阿部も一旦最前線から身を引き、老中首座に蘭癖大名であり自分達が寺社奉行の時に教官だった堀田正睦を据えます。

おそらくここまでは計算通りに政権運営ができていたと思います。

 

 

 

盟友の死、そして日米修好通商条約締結

しかし、本当に残念なことに、阿部正弘が38歳の若さで急死してしまうのです。

すぐに忠固が老中として再任します。45歳。

この時点で政権で最も力を持っていたのは忠固だと思われます。

水戸斉昭や島津斉彬ら政権交代派、30過ぎて彦根藩主となった井伊直弼ら旧態依然派、双方から多大な献金を受けますが、忠固は受け取らなかったという記録も残っています。

忠固が目指すものはペリー来航前から一貫して『交易をして西洋技術を導入する』というもの。

岩瀬忠震や井上清直ら優秀な官僚を使い、遂に西洋諸国間のものと同じ水準の関税率にて、日米修好通商条約締結に成功するのです。

 

 

 

横浜開港から3か月後の急死

条約調印からわずか4日後、忠固を追い落とす為だけに野合した旧態依然派と政権交代派によって、老中を罷免されます。

それが可能になったのも信頼を得ていた将軍・家定が重体となったためで、罷免から10日後に家定が死去すると、井伊直弼は一瞬手を結んだはずの政権交代派をも弾圧し、年少の将軍・家茂を擁して独裁体制を整えます。

翌年、条約に則って横浜が開港。

忠固が準備した上田の生糸輸出が大成功を収めると、条約締結した有能な官僚・岩瀬や井上、輸出の過半以上を取り仕切っていた中居屋などはすべて処分されます。

そして、開港から3か月後、松平忠固死去。享年48歳。病死と届け出がされました。

 

 

 

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