開国の父 老中・松平忠固
開国の父 老中・松平忠固

記 事

【174】描かれた柿図にみる将軍・家定≫

家定は無能とされているが

ペリーが日本を離れて10日後に将軍家慶が亡くなり、その5か月後に息子・家定が将軍に就任します。

家定は病弱で暗愚、その評価は最低レベルです、忠固と同様に。。

ですが、それも政敵の立場であった松平春嶽やその家臣の中根靱負の書いた『昨夢紀事』が現在の歴史学に大きく採用されているからであって、このサイトは忠固と同様、家定が無能だとは評価していません。

むしろ幼いころから暗殺者と闘いながら、したたかな面を備えていたと考えています。

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【173】幕府史上、圧倒的な改革≫

怒涛の改革

ペリー離日から10日後、6/22将軍家慶崩御。

喪が明けるまでは控えていたのでしょう、8月に入ると堰を切ったように怒涛の変革を開始します。

8/1   ペリー国書を一般市民にまで公開

8/6   高島秋帆、出獄

8/10  水戸藩に西洋船『旭日丸』の建造を許可

8/26  台場造営を命令

9/8   浦賀奉行に西洋船『鳳凰丸』建造を命令

9/15  大船建造解禁

10/8  永井尚志を目付に登用、岩瀬忠震を後任の徒頭に

10/18 斉昭、大筒74門を献上

11/6  斉彬、15隻の艦隊製造を許可される

11/7  万次郎、旗本格で登用

11/23 将軍家定、就任

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【172】プチャーチンの動きの裏には≫

プチャーチンの慌ただしい動きの理由とは

1953年10月18日に樺太領有を主張したロシアのプチャーチン。

10月23日には一旦長崎を離れ、上海に戻ります。

そして、12月5日に再び長崎に来航、川路聖謨らと国境画定・和親交渉を再開。

翌1月6日交渉打ち切り、8日には慌ただしく長崎を出港。

14日にはペリーが再来航-、というまさに怒涛の展開がなされます。

この流れの裏では現代も続く大きな世界の流れがあります。

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【172】ロシア、サハリンが島であることを確認≫

プチャーチンとは別のロシア一団

ペリー同様かつ同時期、日本と開国交渉をしたプチャーチン。

そのプチャーチンとは全く別行動で、日本に来た一派がいます。

それが北方シベリアからアムール川を伝ってサハリンを調査していた一団です。

東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフを中心に、ゲンナジー・ネヴェリスコイが実際に樺太周辺を探検しました。

ネヴェリスコイは1849年、樺太が島であること(船が航行可能であること)を確認します。

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【171】ロシア、樺太の領有を主張≫

プチャーチンが樺太領有を主張

始めはプチャーチンは和親交渉しかしませんでした。

ロシア皇帝の国書には和親条約に関することしか触れられていなかったからです。

しかし、コルサコフ大尉から樺太のクシュンコタン占領の報を聞き、「樺太のロシア領有」を主張するのです。

その一か月前には松前藩からその情報を得ていたとはいえ、幕府が困難な状況に追い込まれているのが伺えます。

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【170】ロシア、幕府直轄地を占領≫

日露史

ペリーと同時期に来航したプチャーチンによって、現代に連なるロシアとの歴史が始まります。

ヨーロッパに位置するロシアが日本と接触するまでの歴史を振り返ります。

・1636年/イヴァン・モスクヴィチがロシア人として初めてシベリアを横断、太平洋側に到達。

・1700年/幕命により松前藩が『十州島(北海道)、唐太、千島列島、勘察加(カムチャツカ)』からなる蝦夷全図と松前島郷帳を作成

・1701年/日本人漂流民・伝兵衛らとウラジミール・アトラソフが出会い、日本とロシアが初めて接触

・1706年/カムチャッカがロシアによって占領

・1739年/ヴィトゥス・ベーリング探検隊が房総などに来航、日本は北方に『ロシア』という国があることを認識

・1741年/ベーリングがユーラシアと北米との間の海峡(ベーリング海峡)にたどり着きく

・1744年/ロシアへの対応の為、蝦夷地を松前藩から幕府直轄地とする(1821年まで)

・1806年/レザノフ事件(樺太・択捉島の幕府直轄地をロシアが攻撃)

・1809年/間宮林蔵、樺太が半島でなく島であることを確認

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【169】ペリーと同時にロシアも来航≫

ロシアのプチャーチン、来航

ペリーが離日して、わずか一か月余り、ロシアのプチャーチンが来航します。

現在に続く世界情勢に、まさにここから日本は組み込まれるわけなので、私はペリー来航についてはぜひプチャーチン来航と合わせて開国史を学んでほしいと思っています。

しかも、アメリカは『ロシアが日本にプチャーチンを派遣する』という情報を得て、それに対抗する為にペリーを派遣させてロシアに先んじることに成功したわけですから。

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【168】ペリー来航時の井伊直弼≫

ペリー来航時の直弼は

ペリー来航時の井伊直弼の状況を確認。

彦根藩主となって2年半。

忍一件 のような陰湿で後ろ向きでしかない揚げ足取りで、藩内の政治は掌握したことでしょう。

しかしこの時点で、10代の頃から政府内で活躍してきた阿部や忠固と違い、国政・内閣に所属したことはありません。

ペリー来航時も江戸ではなく彦根にいて、ペリーが去って一か月後に江戸に向かうことになります。

 

 

 

 

 

【167】徳川斉昭が入閣、忠固は反対≫

徳川斉昭、入閣

ペリーが離日して約一か月後、御三家水戸家の徳川斉昭が入閣します。

これは政権にとって劇薬、諸刃の剣でした。

なぜなら、『御三家が内閣に入れば政治的権力を握ることになる、それは将軍家と御三家水戸家との間に権力闘争を誘発することになる』。

それは、家康が絶対に避けるために厳命した祖法であり、鎖国(そもそもこの当時鎖国という言葉も意識もない)よりも大事にすべき幕府の祖法だったからです。

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【166】ペリーが去った直後に将軍死去≫

将軍・家慶死去

ペリーが日本を去ってからわずか10日後、12代将軍家慶が亡くなります。享年61歳。

家慶を語る上で外せないのが、父・家斉との関係です。

家斉は50年間も将軍職にあり、45歳で家慶に将軍を譲った後も4年後に死ぬまで政治を握り続けます。

「賄賂が公認されるほど腐敗した政治・家斉の重臣たちを一掃した」これが家慶の核心たる事業と言えるでしょう。

そして、他でも述べましたが、若干24歳の阿部正弘を老中首座に登用した「人物を見る目」は卓越したものがあると、個人的には高く評価しています。

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