開国の父 老中・松平忠固
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記 事

【102】人事に見る忠固の権力基盤≫

ペリー来航時の内閣

「日米修好通商条約締結時に最も力を有していたのが忠固である」ことを示す人事を見ていきましょう。

1853年、ペリー来航及び日米和親条約締結時の幕閣は以下の通りです。

 

将軍:
徳川家慶 60 ペリー来航直後に死去

 

老中:
阿部正弘 34 首座
牧野忠雅 54 次席。阿部と協調
松平乗全 58 三位。忠優と協調
松平忠優 41 席次四位
久世広周 34 阿部と親戚
内藤信親 40 忠優と親戚

 

勘定奉行:
石河政平 在位12年。忠優辞任と共に辞任
松平近直 在位13年。阿部死去と共に辞任

 

将軍御用取次:
本郷泰固 在位21年。阿部死去と共に辞任

 

 

 

人事と財務を握っていたのは・・・

昔も今も、どんな組織でも、権限の掌握には2つのものが不可欠です。

それは、『人事』と『財務』です。

上記を見ると、阿部首座が本郷泰固を通じて将軍・家慶と繋がって人事を、勘定奉行・松平近直を通じて財務を掌握しているのが分かります。

注目は、松平忠優(忠固)です。

やはり長く勘定奉行を務める石河政平は松平忠優の側近であり、忠優と共に辞任していることからもそれが分かります。

牧野が阿部の、乗全が忠優のそれぞれ補佐役的なポジションだったことからして、この内閣の中心は阿部と忠優だったと言えましょう。

しかも、和親条約の交渉役である代表・林大学頭は阿部に近く、次席の長崎奉行・井戸覚弘は忠優の側近です。

 

 

 

日米修好通商条約締結時の内閣

1858年、阿部死去後の日米修好通商条約締結時の内閣は下記のようになります。

 

将軍:
徳川家定 34

 

大老:
井伊直弼 43

 

老中:
堀田正睦 48 首座
松平忠固 46 次席
久世広周 39
内藤信親 45
脇坂安宅 50

 

勘定奉行:
川路聖謨 在位6年。この年に辞任

 

将軍御用取次:
石河政平 井伊大老就任時に就任。在位3か月

 

 

 

注目は、将軍御用取次の人事

ポイントは将軍御用取次に石河政平が就任していることです。

阿部正弘が側近・本郷を取次役として将軍を掴んでいたと同様に、忠固も側近・石河を取次役とし将軍を掴んでいたと思われます。

大老・井伊直弼は忠固が就任させたのですが(追って詳細記事)、井伊大老就任と同時に石河御用取次就任も井伊を牽制してのことでしょう。

家定とつながって人事を、勘定奉行・川路聖謨は鳥居が壊滅させた蘭学研究の仲間であり、このことから条約締結時に政権の中心にいたのは忠固だと言えるのではないでしょうか。

逆に言えば、30過ぎまで江戸城に入城したことさえなかった井伊直弼が権力を握るには、将軍が変わる以外なかったのです。

 

 

 

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