開国の父 老中・松平忠固
開国の父 老中・松平忠固

記 事

【105】養父・忠学の人物像≫

忠固の養父・松平忠学

 

忠固は18歳で上田藩第四代藩主:松平忠学の養子となり、上田に初入部します。

忠固の養父・忠学とはどのような人物なのでしょう。

 

 

天明8年(1788年)7月19日、上田藩主家分家で信濃更級郡5000石(塩崎知行所)の大身旗本である松平信濃守忠明の次男として生まれる。第4代藩主・松平忠済の長男・忠英の早世から御家騒動が起こったため、宗家の上田藩から忠済の養子として迎えられる。文化9年(1812年)5月6日、養父・忠済の隠居により家督を相続し、従五位下・伊賀守に叙位・任官する。

紅葉山火の番、桜田御門番などを歴任した。文化10年(1813年)に藩校明倫堂を創設して文武を奨励している。

忠学は忠済の四男・忠和を養子としたが、忠和は夭逝する。このため文政13年(1830年)4月20日、代わって養子とした忠優(後の忠固)に家督を譲って隠居し、内蔵頭に遷任する。天保10年(1839年)10月に剃髪して松翁と号した。

嘉永4年(1851年)7月10日に死去した。享年64。

 

 

忠学は上田藩の分家として生まれしかも忠固と同じ次男(家督を継げる長男ではない)だったようです。

藩主となった後、自分の後継には自分の兄の子を据えようとするところも忠固の出身である酒井家と一緒、当時はそれが通例だったのでしょう。

 

藩主となった翌年には、藩校である明倫堂を創設しています。

現代でも同じですが、新しい学校なり会社を立ち上げるというのは、そういう気概がないとできない証。

新しいものを取り入れようという新進気鋭の精神の持ち主だったことが伺えます。

養子選びの時に、まさに若き忠固に「この男なら」とピンと来たのではないでしょうか。

 

 

 

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