開国の父 老中・松平忠固
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記 事

【114】きっかけは天保の大飢饉≫

6年も続く大飢饉

忠固が藩主となった3年後、天保4年(1833年)に天保の大飢饉が始まります。

天保7年の米の年末残が1,014俵、3,356俵必要なので3分の1しか収穫がない、といった状況が天保10年まで続くことになります。

忠固は参勤も略式軽装にしたり儀式を簡素化したりと質素倹約に努めますが、さらに、名産である養蚕に力を入れることで財政立て直しを試みます。

現在の常識だと当たり前の経営手法のように思われるかもしれませんが、このような取り組みは異質中の異質でした。

 

 

 

大名は儲けてはいけない

江戸時代は産業振興することが基本的に許されていなかったからです。

つまり米以外の物を生産して利益を上げることが認められていなかったのです。

なぜなら、商業で儲けて財政が豊かになり武力を拡充されたら幕府の脅威となるからです。

そもそも参勤交代制度自体も各大名の支出を増やすことで力をそぐことが目的なのですから。

それは外様大名はもちろん、譜代も親藩・ご家門でさえ同じでした。

 

 

 

蘭学者達の意見を取り入れる

ほとんどの大名は財政ひっ迫に苦しみ、倹約をするしかできませんでした。

そんな中で蘭学の知識のある蘭医やその情報に触れることのできるごく一部の人達が米だけに頼らない新しい仕組み等を模索し始めます。

その一人が蘭学研究グループ『尚歯会』を主催する渡辺崋山であり、崋山の殿様の一族であった忠固だったのです。

忠固は幕府に地元名産を販売することを認めさせ、大阪で成功を収めると、やがてそれが国外へ向けての販売、日米修好通商条約締結へと進んでいくのです。

 

 

 

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