開国の父 老中・松平忠固
開国の父 老中・松平忠固

記 事

【142】Wikipediaに【安政の大獄】がない≫

【批評】でなく【実績】を見る

このサイトは、【批評】でなく【実績】で判断したいと考えています。

それは、忠固自体が悪口とも言える個人攻撃の批評によって、正当な評価が得られていないからです。

考え方が違うのは、大いに結構です。

忠固と正反対の行動を取った徳川斉昭も、個人的に嫌いではないのは、斉昭も日本の将来を思っての主張・行動だったからです。

しなしながら、井伊直弼はどうでしょう。

 

 

 

31歳で初めて江戸城に登城

忠固が10代の頃から政権内で任にあたり失脚も経験し閣僚一歩手前まで歩を進めたこの年、井伊直弼は31歳で彦根藩の跡継ぎになります。

生まれが13男で正室の子でなかったので養子の貰い手さえなく、この年までニートのような生活をしていました。

世継ぎだった11男が38歳の若さで亡くなったことから急遽世子となり、そして世子となったことで生まれて初めて江戸城に上府したのが、この時だったのです。

彦根藩内の家臣たちでさえよく知らない訳で、当然中央政府には人脈は皆無で、阿部や忠固、島津斉彬のような江戸育ちのネットワークもない、ということはまず確認しておきます。

 

 

 

井伊直弼の実績は

井伊直弼の実績は一つ、安政の大獄です。

日米和親条約締結時は政権に関わってないし、修好通商条約締結は忠固と外国奉行達が行い、結局最後まで了承しませんでした(だからこそ忠固を罷免した)。

行った実績は安政の大獄だけ。

しかしながら、wikipediaでは、その唯一の実績である安政の大獄の項目がないのです。

歴史学の難しさが垣間見えます。

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

開国の父 老中・松平忠固

PAGE TOP

© 開国の父 老中・松平忠固史 All Rights Reserved.