開国の父 老中・松平忠固
開国の父 老中・松平忠固

記 事

【147】忠固(忠優)、ついに老中に≫

忠固、遂に老中に

弘化から嘉永元年(1848)となり、忠固(忠優)がついに老中となります。

その時の閣僚・老中の布陣は以下の通り。

阿部正弘 29(1843 – 1857)
牧野忠雅 49(1843 – 1857)阿部と親戚、阿部の守役的存在。
戸田忠温 44(1845 – 1851)阿部と親戚(阿部の妹が妻)51年に死去、後に久世
松平乗全 53(1845 – 1855、1858 – 1860)阿部と親戚(父の妻が正弘の叔母)、忠優の守役的存在。
松平忠優 36(1848 – 1855、1857 – 1858)

忠固以外は阿部の親戚、完全なる阿部正弘内閣の誕生です。

 

 

 

忠固が入閣した意味

ミシシッピー号の浦賀入港許可、オランダの開国要求、アメリカの開国要求、フランスの琉球交易許可等。

これまでは何とか阿部一人でかわしてきましたが、ここに忠固が入った、その意味はなんでしょう。

そうです、本気で開国にかじを切る、開国内閣である、ということです。

そう考えると、この年に『嘉永』と年号が変わったのも『開国するから』なのでは、と思えます。

嘉(よろこびが)永(く続きますように)

元号には願掛け、願いが込められるからです(ちなみにこの後政局が荒れるので『安政』となる)。

 

 

 

 

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