開国の父 老中・松平忠固
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記 事

【148】井伊直弼の性格≫

井伊直弼の性格を象徴する『忍一件』

井伊直弼を象徴する事件『忍一件』をご紹介します。

彦根藩・井伊家は御三家を除く全国大名の筆頭という家柄で最高位7家は『溜間』という家格にあたります。

その溜間の中でも上位3家(彦根・会津・高松)は常溜と言われ、下位4家(姫路・松山・桑名・忍)は飛溜と言われます。

事件は嘉永三(1950)年、直弼が彦根藩世子(世継ぎ)となって4年目にそれは起きました。

 

 

 

事件のあらまし

事件の発端は飛溜の忍藩主が「自分の世子を将軍に初目見させる時、自分が同道できない場合は同席に代わってもらっていいか」と老中に伺いを立てたことに始まります。

下位の飛溜が老中に伺いを出す時は上位の常溜三家に挨拶するのが決まりでしたが、当時、常溜三家の当主は帰国して江戸にいなかったので、忍藩主は「挨拶の必要なし」と判断して直接老中に相談したのです。

ところが、在府していた井伊家世子の直弼は激怒して、わざと問題を大袈裟に扱いました。

驚いた忍藩は使者を井伊家に派遣して陳謝、手続きを踏み直します。

世子の初目見当日、実際には忍藩主が同道して済ませたため、先の一件は無用で終わるはずのところ、直弼は自分をないがしろにした忍藩への追及の手を緩めず、意図的に国許にいる会津藩主、高松藩主と連絡を取って常溜三家で議する問題にまで発展させたのです。

このため事の発端から一年近く経過してようやく常溜三家の協議が実現、席上、直弼が忍藩再度の伺い書の内容が自分の例示した文面と異なることを指摘して、あらためて忍藩を譴責する事態となり、六月二十日、忍藩城使が彦根藩城使に取調方の不行き届きを陳謝したうえ、幕府にも不念書を提出して不都合を陳謝するという経緯により、ようやく一件落着に立ち至ったのです。

 

 

 

阿部・忠固政権にとって障害でしかない

詳細は、歴史作家・祖父江一郎氏のサイトをぜひご覧下さい。

実際には必要なかったことに関して一年以上も時間をかける、それも些細な、些細すぎるどうでもいいことです。

それは、これから開国という前代未聞の大事業に取り掛かることに全力を注いでいる阿部正弘・松平忠固政権にとって、本当にどうでもよく、そして非生産的この上なく、まさにこれから待ち受ける難関且つ膨大な改革に対して障害でしかないことだと分かります。

 

 

 

 

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