開国の父 老中・松平忠固
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記 事

【165】第一次ペリー来航まとめ≫

ペリー来航トリビア

記事以外のペリー第一次来航トリビアをまとめます。

・出会いの第一声は蘭通訳:堀達之助「I can speak Dutch !」

・初対面は浦賀奉行与力:中島三郎助と堀、副官コンティと蘭通訳ポートマン

・交渉に当たった与力:香山栄座衛門をアメリカ側は浦賀奉行と認識していた

・日本側は中国語・オランダ語に堪能なのはもちろん、科学の一般原理や世界地図におけるニューヨークやワシントン・イギリス・フランス・デンマーク・その他欧州諸国の場所を知っていた

・艦内見学の際、大砲を見て「パクサンズ砲」と言い当て、蒸気機関を見ても驚きの色を見せなかった

・ペリーは「猿島=ペリー島」、「夏島=ウェブスター島」「打ち沈め線(観音崎~富津岬)=ルビコン岬」「根岸湾=ミシシッピ湾」と名付けた

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【164】最も印象的なペリーの日本評≫

滞在8日目の日記より

川を遡ると、外国人の姿を一目見ようと岸にやってきた大勢の住民に出会った。

あらゆる身振り手振りで歓迎の意を表してボートに向かってあいさつし、すすんで水やおいしい桃をくれる住民もいた。

政府船が二、三艘ついてきたが、乗り込んでいた役人たちは我々を歓迎して訪ねてきた。

そのうちに互いに友情が芽生えてきて、アメリカ人は日本人と一緒に煙草を交換し合って飲むほどになった。

我が士官たちはこの親切なもてなしのお返しに、知り合ったばかりのホスト達に拳銃を見せてやり、撃ってみせると日本人は非常に驚き、かつ喜んだ。

このように大変なごやかに交流して楽しんでいる間、日本人は非常に愛想よく、おおらかにもてなしてくれた

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【163】ペリーの知られたくない事実を知っていた日本≫

最重要機密を知っていた幕府

ペリーは国書を渡すことに成功すると、来航からわずか9日間で日本を離れます。

これは長期滞在するだけの物資がなかったからで、この事実はペリーの個人日記にだけ記されたトップシークレットであり、公式文書にもなければ当然ながら相手(日本)には秘密のことでした。

しかし、幕府はこの事実さえつかんでいたのです。

当時の日本政府はペリーに対し互角以上の交渉をしていたことが分かります。

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【162】「米国と一戦交えるべきだ」と主張する象山の真意とは≫

象山の攘夷とは

ペリー来航を知った佐久間象山は、夜通し駆けて翌朝には艦隊が見える位置までやってきます。

電話やカメラ、サングラスまでも自分で作ってしまう象山ですが、実は「アメリカと一戦交えるべきだ」と主張しているのです。

意外ですね。

ですが、その主張は水戸斉昭を始めとする9割9分を占める攘夷派の意見とは少し違います。

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【161】アメリカの沖縄政策はペリー当時から始まった≫

浦賀来航前に琉球へ

あまり知られていないかもしれませんが、ペリー艦隊は浦賀に来る前に琉球に寄っています。

1953年5月26日(嘉永6年4月21日)、那覇に入港します。

首里城訪問を拒否されたペリーは武装して進軍、入城を果たします。

下記の画像はその時のものですが、ペリー一行は料理を歓待されたものの、琉球が用意したもてなしは清国からの冊封使に対するよりも下位の料理で、暗黙に拒否の姿勢を示しました。

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【160】ペリー上陸で演奏された『アルプス一万尺』≫

ペリー上陸、軍楽隊の演奏と共に

ペリー艦隊が浦賀に現れて7日目。

ついにペリー提督以下、300名の海兵隊員が日本に上陸します。

上陸と共に、アメリカ国歌が軍楽隊によって演奏されました。

あのアメリカ国歌をバックに勇壮と行進するペリー以下のアメリカ軍。

イメージしただけでドラマチックです。(私の脚本でも当然描いています)

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【159】感動の合衆国大統領国書≫

ペリーが持参した大統領国書 全文

偉大なる善き友へ。

アメリカ合衆国海軍の最高位士官であり、貴帝国を訪問中の艦隊総司令官であるマシュー・C・ペリー提督に託し、この国書を謹呈する。

私は陛下と陛下の政府に最も親愛なる気持ちを抱き、提督派遣については、合衆国と日本が友好関係を築き、お互い貿易すること以外の如何なる意図もないことを、皇帝陛下にはっきり申上げるようペリー提督に命じている。

合衆国憲法と法律は、他国の宗教や政治に関する如何なる干渉も禁じている。

ペリー提督には特に、貴帝国の平安を乱す如何なる行為も差し控えるよう命じている。

アメリカ合衆国は大西洋から太平洋までつながり、我がオレゴン領とカリフォルニア州は貴帝国に相対する位置にある。

我が蒸気船は、カリフォルニアから日本まで18日で航海できる。

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【158】ついにペリー来航≫

ペリー来航

58番目の記事にて、ようやくペリーが来日しました。

嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、ペリー艦隊4隻が浦賀に出現します。

ペリーは実は、太平洋を渡ってきたのではありません。

4カ月半かけて地球の4分の3回って、インド回りでやってきました。

ペリー側はそれを意図的に隠して「アメリカから20日で来られる」と強調し、実はまだ机上計算でしかなかった太平洋航路を使っているフリをするのです。

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【157】ペリーの名や艦名、目的、時期さえ知っていた≫

クルティウスの書簡

その書簡は長崎と天文方、二つの訳文がなされました。(日蘭学会誌第13巻2号)

北アメリカ合衆国政府が日本に向けて同国との貿易関係を結ぶため、合衆国大統領の日本皇帝宛ての書簡一通を携え、かつ数人の日本人漂流民を連れた一使節が派遣させるとのことであり、また、北アメリカ人の為に、日本の一つの適切な港に石炭を貯蔵できるための許可を求めるとのことですが、その港を彼らは、彼らがカリフォルニアとシナとの間に計画している蒸気船の航行にとって必要としているとのことです。

予想される軍艦名は、軍用蒸気フリゲート艦サスケハンナ、コルベット艦サラトガ・プリマス他二艦が現在シナ海域にあり、最近受け取った幾つかの報告によれば、同海域には蒸気艦ミシシッピー、プリンストン、ブリック艦ペリー、運搬船サプライがいて、遠征指揮官は准将オーリックから准将ペリーに代わったとのことです。

第一次・第二次ペリー来航とほぼ合致しています。

当時のサンフランシスコ、おびただしいマストが見えます

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【156】ペリー来航を知らせたクルティウス≫

出島にクルティウス来日

ペリー来航1年前、オランダ商館長(カピタン)にヤン・ドンケル・クルティウスが就任します。

出島で作成したオランダ風説書に加え、パタヴィアで作成した別段風説書をもって、1年後のペリー来航を幕府に知らせます。

来日1か月後には阿部・忠固政権は『軍艦・大砲建造の意見書』を将軍家慶に提出。

これだけのスピードで過去2百年余りの法律を変えようと動く政権を『無能』呼ばわりする歴史家がいらっしゃるのは、私には理解に苦しみます。

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