【837】第3話 B1 『井伊直弼』≫
○御殿山
『御殿山』
高台から品川沖を眺望している。
房総から三浦まで圧巻の眺め。
忠優と井戸、石河。
元気がない忠優。
井戸「どうかされましたか、元気がないような」
忠優「いや、なんでもない。台場を置くとなるとあの辺りか」
井戸「そうですな、そこの八つ山を切り崩して埋め立てるとして、そうなりましょう」
忠優「どうだ、石河、どれくらいかかる」
石河「ざっと見積もって70万両は下らないでしょう」
忠優「手当てできそうか」
石河「はい。財政出動となると大船建造などその他の予算が圧迫されます。台場の譜請については商人よりの献金で賄うつもりでございます。佐久間など決戦に臨んで江戸の街を火の海にする計画ですから、商人にとっても応じるより他ないでしょう」
忠優「火の海とはしたり。あらかじめ庶民は全員避難させた上でのこと。家屋など焼けてもまた建てればよい。それに砲撃させる地域はこちらで誘導するのだ。被害は限定的だ」
石河「そうでした。御前は佐久間の案に賛成でしたな。ははは」
湾を行き交う商業船。
井戸「時に御前。溜間はいかがでございましたか。特に掃部守様は」
忠優「掃部守?」
井戸「井伊直弼様にございます」
忠優「ああ」
井戸「あまり関わり合わない方が無難でござりまするぞ」
石河「私も噂に聞いております。忍一件ですな。確かにぞっとする話でござる」
そんな話は耳に入らず、あまり元気のない忠優。
○江戸城・溜間
上座に座る井伊直弼。
N「彦根藩主・井伊直弼。2年前の嘉永3年(西暦1850年)11月21日に彦根藩主となる。この時36歳。27日に掃部守を襲名する。兄である前藩主直亮の世子が急死したため、唯一部屋住みで残っていた14男の直弼が世子となり、続けざまに直亮の死に伴い藩主となった」
○井伊家(回想)
小さく貧しい屋敷。
N「兄弟が多かった上に婚外子であったこともあり、養子の口もなく、父の死後、三の丸尾末町の屋敷に移り、17歳から15年間を300俵の捨扶持の部屋住みとして過ごした。自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、埋木舎(うもれぎのや)と名付けた邸宅で世捨て人のように暮らし、32歳で世子となるまで江戸城に登城したことさえなかった」
○江戸城・溜間
下座に忍藩主。
N「直弼の人となりや考えなどをよく表すのが先に話に出た忍一件と呼ばれる出来事で、直弼が彦根藩主となる直前に起きた」
忍侯はハンカチで汗を拭きながら、苦りきった顔をしている。
直弼「この溜間において下位の飛溜が老中に伺いを出す時は、必ず常溜三家に伺いを立てるのがしきたり。まさか貴殿はそれをお忘れではありますまい」
忍候「は、はぁ、もちろん」
直弼「常溜三家とはどの家ですかな」
忍候「ですから先日も申し上げた通り、手続きの間違いに関しては伏してお詫び申し上げた次第で・・・」
直弼「常溜三家とはどの家ですかな」
N「全国の大名の中で最高格に位置する溜間、その中でも彦根藩井伊家を筆頭に会津藩松平家、高松藩松平家の3家がその最上位として常溜と呼ばれていた。その他に、飛溜と呼ばれる下位に位置づけられる姫路藩酒井家、松山藩松平家、忍藩松平家、桑名藩松平家の4家、そして一代限り許される老中経験者で溜間は構成される。先にも説明したように溜間詰大名は老中より家格は高い。ちなみに詰問されている松平忠国は忍藩主で飛溜にあたる」
閉口する忠国。
忍候「彦根藩井伊家、会津藩松平家、高松藩松平家にございまする」
直弼「その常溜の筆頭はどこですかな」
忍候「彦根藩井伊家にございまする」
直弼「はて、拙者、この件は聞いておらぬ。拙者は誰でしたか」
忍候「・・・。彦根藩世子井伊直弼殿にござる」
直弼「常溜筆頭と知りながらこの井伊家に挨拶の必要はなしと判断されたわけですな。この世子たる直弼など無視しても構わぬ軽輩だと」
忍候「そんな滅相もない。ただ、此度は我が世子を将軍に初目見させる時に自分が同道できないので同席に代わってもらって差し支えないか、等という他愛もない内容ゆえ、さしたるものではないかと」
直弼「だまらっしゃい。内容がどうこうという問題ではござらん」
忍候、黙り込む。
直弼「家格を軽んじることすわなち幕府を軽んじること、徳川将軍家を軽んじることと同義ですぞ」
忍候「ははー」
直弼「そのようなタガの緩みが秩序の乱れを引き起こし、ひいては幕威の失墜を招くことになる。これは常溜三家にて厳重に吟味を致す。それまではこの案件は棚に上げるのでそのように覚悟するように」
嫌な顔をする忍候、平伏する。
厳しい顔の直弼。
N「この『忍一件』と呼ばれる事件は、1年以上にも及んだ。その最中に直弼は彦根藩主となる。それはペリー来航の2年前のことであった」
○井伊家・外観
『彦根藩・井伊家』
○同・茶室
静かな茶室の空間。
茶をたてている直弼と長野主膳(38)。
長野「彦根藩、溜間と順調に掌握できましたな。次はいよいよ幕閣」
直弼「・・・」
苦々しい顔の直弼。
茶をたてシャカシャカかき混ぜている。
長野「してやられましたか、伊勢ですか、伊賀ですか」
無視してかき混ぜる直弼。
長野「やはりやつら、そして今の幕閣は油断なりませんな」
かき混ぜ終え、長野の前に茶を差し出す。
直弼「何を申すか。わしの教養、おまえの智謀にかかればやれぬことなどないわ」
長野、ふふと笑う。
茶を飲み、一気に飲み終わり茶碗を置く長野。
長野「つけいる隙はあります。やはりあの二人を決別させる、それが幕閣を奪取する最も効果的な方法でありましょう」
直弼「どうするのだ」
長野「先日、水戸のご老公を幕政に登用するにあたり、あの二人が激しく口論したとか」
直弼「本当か」
長野「はい。周囲にまでその声が響き渡るほど激しいものだったと聞き及んでおります」
直弼「むう」
長野「伊勢はご老公登用に賛成、伊賀は激しく反対、という立場。これを利用し二人の間を斬り裂くがよろしいかと」
直弼「よし」
不敵に笑う直弼。
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