【865】第5話 A1 『うつけ将軍』≫
○横浜沖
雪の降るなか、停泊する米国艦隊。
○江戸城・外観
つぼみの桜に雪が積もっている。
○同・将軍謁見の間
簾のかかる上座には人はいない。
老中達が将軍の登場を待っている。
乗全「上様は今更ながらメリケン国との条約締結に反対されたりしないだろうか」
牧野「政にはご興味ないので問題ない…、ですな、伊勢殿」
わずかに口ごもる阿部。
『失礼します』と本郷が入ってくる。
本郷「申し上げにくい事ですが」
牧野「どうした」
本郷「上様はお出ましにはなられず」
乗全「また御体調が優れぬのか」
本郷「いえ、お元気でいらっしゃいますが、ただ…、他に用事ができたと」
牧野「メリケン国との和親条約締結の報告ぞ。それより大事な用事…、とは?」
本郷「どうしても今日ということなら、ご案内仕りますが」
顔を見合わせる一同。
牧野「どうしますか、日を改めますか」
阿部「いや、報告は早くせねばならない」
本郷「では、こちらへ」
○同・庭
雪の中を奥の方へ歩いていく一行。
牧野「これは…」
庭の中央に真紅の敷物と艶やかな傘が広げられ、雪見の席が設けられている。
言葉を失う老中陣。
女中と雪見をしている徳川家定(30)。
家定「綺麗であるぞ。お主らも参れ」
無邪気に楽しんでいる家定。
老中達が座ると同時に引き上げる女中。
牧野「上様、これはいったい」
家定「分からぬか、雪見じゃ」
牧野「そうではなく、本日はそんな事より重要なご報告の儀があり…」
気難しい顔の牧野を制する阿部。
阿部「雪が美しく映えておりますな、上様」
家定「であろう。桜がもうすぐ開花しようかと思うたらまさか花見が雪見になろうとはのぉ。そなたらも一献いかぬか」
徳利を振る舞う家定。
牧野「上様から直々にお酌頂く等、いえ、でなく酒など飲んでる訳にはいかぬ大事な…」
またもや制する阿部。
阿部「恐れながら頂きまする」
家定「そうか、そうか」
杯を捧げる阿部に徳利を注ぐ家定。
家定「そちはどうだ」
にっこりしている家定。
忠優「…、頂きます」
杯を受ける忠優。
続いて牧野、乗全も酒を受ける。
全員、杯を掲げた状態のまま
家定「あ、そうそう、重要な報告であったな。余も分かっておったぞ。であるので、大事な公務中に酒など飲んではいけないと思い、実は別のものにしておいた」
一同、訳が分からないという表情。
阿部「別のものとは」
家定、にっこりして
家定「なに、絶対飲まないように、毒を入れておいた!」
あっけらかんと話す家定。
驚く牧野、乗全。
忠優もわずかに表情が変わる。
牧野「ご、御冗談を」
家定「冗談ではないぞ、そなたたちは冗談で公務を行っておるのか」
沈黙する場。
雪がしんしんと頭や肩にかかってくる。
老中達の頭上には傘はない。
家定「将軍から受けた杯を捨てるのか、毒を飲むのか。如何に選択するかな」
にっこりと笑顔の家定。
家定「最高の幕閣と評判のそなた達ならば、最良の判断をするであろう」
にっこりした表情が一変。
家定「夷狄との条約も決めた程だからな」
鋭く冷たい表情。
しかし、それもすぐになくなり、また無邪気に笑う顔に戻る。
凍りつく表情の老中達。
杯にも雪が入っていく。
杯を持つ手がブルブルと震えてくる乗全と牧野。
その様子を見て阿部が沈黙を破る。
阿部「たとえ毒であろうと公務中であろうと、上様より頂いた身に余る杯、喜んでお受けさせて頂きます」
阿部ががばーと一気に杯を空ける。
牧野・乗全「…」
続けてすぐさま杯を空ける牧野と乗全。
牧野「身に余る光栄」
乗全「ありがたき幸せ」
家定「ほうー」
手を叩く家定。
一人残された忠優。
忠優を興味深げに眺める家定。
忠優、掲げていた杯を下ろす。
忠優「我は…、飲めません」
ギロっと忠優を睨む家定。
驚く牧野と乗全、声も出ない。
家定「なんだ、毒を飲むのが怖いか」
忠優「そうではござりません」
家定「ではなんだ。余の言う事が聞けぬか。これは将軍の命である。主の命が聞けぬというか」
忠優「聞けません」
乗全「い、伊賀殿」
心配して促す乗全。
家定「ではすぐに武士をやめよ。うん、よし。この者は武士ではない。下がってよいぞ」
阿部、牧野、乗全は困惑の表情。
もはや忠優には視線を投げず、再びニコニコとし出す家定。
忠優「我は武士です。いつでも主の為に命を投げ出す覚悟はあります。しかし」
忠優、初めて家定の顔を見る。
忠優「家臣に対し毒と分かっていて毒を飲ませるような行為はあるまじきもの。主は家臣に対し、そのような事をしてはならぬと御諫めする事こそ武士の本懐かと」
家定「主に逆らうのか、将軍たる余の言う事が聞けぬのに武士だというか、お前は」
忠優をにらみつける家定。
忠優「では…、武士たる証拠を」
忠優、腰を上げようとする刹那、手で膝を押さえつける阿部。
阿部「上様」
震えが止まっている牧野と乗全。
阿部「上様、現在我が国は存亡の危機に立たされております。あらゆる可能性をも想定し事にあたらねば突破できぬ状況です。それには言いにくい事をも言ってのける者はとても貴重。そういう意味で伊賀守は老中の中でも稀有な存在であり、今の上様への忠義の示し方を見ても充分お分かりになられたかと存じます」
阿部、深い平伏。
牧野、乗全もつられて平伏。
ぽかんとしていた家定、にこっとする。
家定「そうか。伊勢。そなたが言うとそうだという気がする。好きにいたせ。おっ、寒いのでもよおしてきよった」
席を立って走り出す家定。
阿部「上様、メリケン国との条約について」
家定「難しい事はそなた達に任せておる。よきに計らえ」
離れ際に忠優に冷たい視線を送る家定。
雪の降る中、残される老中達。
乗全「いやはや上様は何を考えておるやら」
牧野「全く御戯れを。毒などおっしゃって、冗談も過ぎますぞ」
忠優「・・・。すぐに吐き出した方がよい。あれは紛れもなく毒だ」
乗全「な、なんですと」
ゴホゴホと吐き出す乗全と牧野。
牧野「こ、ここだけの話、暗愚との話も聞こえておったが…、まさかここまでとは」
乗全「暗愚どころかうつけ…ゴホゴホ」
阿部・忠優「・・・」
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