開国の父 老中・松平忠固
12月2019
【174】描かれた柿図にみる将軍・家定≫
家定は無能とされているが
ペリーが日本を離れて10日後に将軍家慶が亡くなり、その5か月後に息子・家定が将軍に就任します。
家定は病弱で暗愚、その評価は最低レベルです、忠固と同様に。。
ですが、それも政敵の立場であった松平春嶽やその家臣の中根靱負の書いた『昨夢紀事』が現在の歴史学に大きく採用されているからであって、このサイトは忠固と同様、家定が無能だとは評価していません。
むしろ幼いころから暗殺者と闘いながら、したたかな面を備えていたと考えています。
【173】幕府史上、圧倒的な改革≫
怒涛の改革
ペリー離日から10日後、6/22将軍家慶崩御。
喪が明けるまでは控えていたのでしょう、8月に入ると堰を切ったように怒涛の変革を開始します。
8/1 ペリー国書を一般市民にまで公開
8/6 高島秋帆、出獄
8/10 水戸藩に西洋船『旭日丸』の建造を許可
8/26 台場造営を命令
9/8 浦賀奉行に西洋船『鳳凰丸』建造を命令
9/15 大船建造解禁
10/8 永井尚志を目付に登用、岩瀬忠震を後任の徒頭に
10/18 斉昭、大筒74門を献上
11/6 斉彬、15隻の艦隊製造を許可される
11/7 万次郎、旗本格で登用
11/23 将軍家定、就任
【172】プチャーチンの動きの裏には≫
プチャーチンの慌ただしい動きの理由とは
1953年10月18日に樺太領有を主張したロシアのプチャーチン。
10月23日には一旦長崎を離れ、上海に戻ります。
そして、12月5日に再び長崎に来航、川路聖謨らと国境画定・和親交渉を再開。
翌1月6日交渉打ち切り、8日には慌ただしく長崎を出港。
14日にはペリーが再来航-、というまさに怒涛の展開がなされます。
この流れの裏では現代も続く大きな世界の流れがあります。
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