開国の父 老中・松平忠固

【115】盟友・阿部正弘≫

阿部正弘が藩主に

天保7年(1836年)、阿部正弘が18歳で福山藩主となります。

この6歳年下の阿部正弘と忠固がペリー来航時の政権の中枢として活躍することになります。

ただ、「阿部と忠固が懇意で一緒になって政局に当たった」とする資料は多くありません。

私も常に探してはいるんですが、ほとんどないといっても過言ではありません。

 

 

共に歩んだ忠固と阿部

二人が自ら著した書物はありませんが、二人が歩いた年表から分かることもあります。

・二人とも江戸生まれで、次期藩主が約束された仲間だった

・4人いる寺社奉行(自治大臣)を同時期に努めた

・阿部が老中になってすぐ、失脚した忠固が寺社奉行に復帰

・阿部が老中首座になると、忠固は大阪城代へ出世

・嘉永7年間、共に老中としてペリー来航など難局にあたる

・ペリーに対する全権大使代表が阿部の側近・林大学頭で、次席が忠固の側近の井戸覚弘。

などなど。

 

 

若者たちは西洋技術にあこがれた

いつの時代も若者は時代の先端をかぎ分けます。

10代の忠固や阿部らは一般には知らされない政府情報や渡辺崋山など蘭学研究者から西洋技術を知り、大いにそれらに興味を示したことは想像に難くありません。

西郷隆盛を登用し薩摩で西洋技術の工場などをたくさん建設した島津斉彬などもそういった一人でしょう。

 

 

忠固と島津斉彬

ただ、阿部と斉彬は非常に懇意だったのは明らかですが、忠固と斉彬のつながりを示す資料は全くありません。

二人はあまり懇意ではなかったと推察します。

なぜなら、海のない内陸地の5万石という小藩の忠固に対し、斉彬は琉球も支配する70万石の大藩・島津。

外様への警戒感と西洋式艦隊15隻建造するなどと宣言する斉彬に羨望感もあったのではないでしょうか。

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

開国の父 老中・松平忠固

PAGE TOP

© 開国の父 老中・松平忠固史 2024 All Rights Reserved.