開国の父 老中・松平忠固
【103】出身は譜代筆頭・酒井家≫
酒井家の次男
忠固は、文化9年(1812年)姫路藩第四代・酒井忠実の次男として生まれます。
この「次男」であることがその後の人生を大きく左右したと思えます。
なぜなら、当時の武家社会は家を相続できるのは基本、長男のみが許されていたからです。
いくら有能でも次男は相続できず、他家へ養子に出されます。
そして、他家に養子に出ることもまた、当時は普通のことでした。
父もまた次男
父・忠実の家督を相続したのは、父の兄の子、すなわち忠固の従兄弟。
つまり父の忠実自身も第三代の兄の弟、要するに次男であり、自分の次・第五代は「兄の子」と決めていました。
「自分のかわいく有能な子を世継ぎに」とクーデターを起こしてもよさそうなものですが、そこはとても義理堅く、そして家族仲がよかったのでしょう。
「父の兄の子」である第五代が37歳で早世すると、忠固の兄の子が第六代を相続します。
順法意識が高く義理堅い
忠固自身も父の影響か、兄を押しのけたりすることなく、他家へ出ることとなります。
ただ、この忠固の兄というのが一切資料に出てきません。
おそらく先天的に病を患っていたのでしょう、25歳で亡くなったことになっています。
そこは当時の他の大名もよくやっていたように、忠固が相続するように調整できなかったのでしょうか。
そこからは、忠固も酒井家もとても遵法意識が高く、そして義理堅かったのが伺われます。
酒井家を相続したら大老に
もし、忠固が酒井家・長男として生まれていたら・・・。
間違いなく大老となっていたので、老中首座・阿部正弘との政権運営もより強固で安定的に開国が出来たに違いありません。
そうであれば幕末の歴史は全く違っていたものとなっていたでしょう。。
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