開国の父 老中・松平忠固

江戸幕府

【101】江戸幕府が既に『大日本帝国』を名乗っていた≫

『大日本帝国』を初めて名乗ったのは

大日本帝国と言えば、明治になってから名乗り始めた、と思われると思います。

大日本帝国憲法が発布されたのが明治になってからなので、それは当然かもしれません。

ですが、江戸時代に既に対外的に日本は『大日本帝国』を名乗っていたんです。

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【112】江戸幕府の出世コース≫

奏者番

忠固は藩主となった4年後の22歳の時に【奏者番】をいう役職に就きます。

奏者番とは、将軍と大名たちをつなぐ連絡係で、幕府の出世コースの第一歩です。

資格のある全国の譜代大名から20名程度が選ばれます。

外様大名やご家門・親藩は奏者番にはなれません。

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【118】寺社奉行は自治大臣≫

戸籍を管理する寺社を統括する寺社奉行

寺社奉行は今でいう自治大臣(現在は総務大臣ですが)である、ってご存知ですか?

今はお寺の檀家制度が廃れてしまいましたが、江戸時代は全ての家庭が檀家としてお寺に所属していました。

つまり、お寺が人々の戸籍を管理し、その寺社を統括するのが寺社奉行、という訳です。

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【119】時の政権は海外情報を熟知していた≫

風説書とは

アヘン戦争勃発からわずか4日後なんですね、別段風説書が提供開始されたのは。

風説書とは、当時交易していた唯一の西洋国であるオランダが提供したレポートです。

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【122】反対と妨害の中、西洋式砲術を実演≫

長崎の幕臣・高島秋帆

長崎出身の幕臣・高島秋帆は出島のオランダ人を通じて、自ら西洋式砲術を学び高島流砲術を完成させます。

そして、1841年(天保12年)5月に江戸・西郊外の徳丸が原で幕府幹部を前に公開演習を行います。

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【132】時の老中首座・水野忠邦は外国に無関心だった≫

忠固は失脚、鳥居耀蔵は出世

忠固が寺社奉行を罷免され、一方で鳥居耀蔵は勘定奉行に就任します。

それも、目付・北町奉行を兼帯したままで、です。

それは、警察庁長官と最高裁判事と財務大臣を同時に兼務することを意味します。

どれだけの権限が集中するか、考えなくとも分かることでしょう。

これまで罪をでっちあげて検挙し有罪に陥れてきた者が、その運営予算まで握ってしまうのですから。

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【134】水野忠邦、政変により老中を解任≫

教科書で習う『天保の改革』であるが

『天保の改革』は『享保の改革』『寛政の改革』と共に江戸三大改革と学校では習います。

享保の徳川吉宗、寛政の松平定信と合わせて、水野忠邦も「それは偉人だ」という印象を持っていました。

しかし、天保の改革は結果としては失敗です。

13代家斉時代の放漫政治を一掃したことは評価されますが、江戸と大阪にある諸大名の領地を幕府に召し上げさせる『上知令』が失敗し、同僚の老中・土井利位に追い落とされます。

最後は本人不在のまま土井に上知令を撤回され、その5日後に老中を罷免されることとなるのです。

水野忠邦

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【141】【一橋派 vs 南紀派】ではなく【政権 vs 政権交代派】≫

一橋派 vs 南紀派 という構図ではない

日米両条約締結の時期の政治体制は、今でも下記のように語られます。

一橋派 vs 南紀派

〇一橋派

阿部正弘、水戸徳川斉昭、松平慶永(春嶽)、島津斉彬、尾張徳川家、宇和島・土佐藩主など

〇南紀派

井伊直弼、松平忠固、紀州徳川家家老、溜間大名、譜代大名

しかし、このサイトは条約締結時にはそのような構図はなかったと考えています。

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【142】Wikipediaに【安政の大獄】がない≫

【批評】でなく【実績】を見る

このサイトは、【批評】でなく【実績】で判断したいと考えています。

それは、忠固自体が悪口とも言える個人攻撃の批評によって、正当な評価が得られていないからです。

考え方が違うのは、大いに結構です。

忠固と正反対の行動を取った徳川斉昭も、個人的に嫌いではないのは、斉昭も日本の将来を思っての主張・行動だったからです。

しなしながら、井伊直弼はどうでしょう。

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【157】ペリーの名や艦名、目的、時期さえ知っていた≫

クルティウスの書簡

その書簡は長崎と天文方、二つの訳文がなされました。(日蘭学会誌第13巻2号)

北アメリカ合衆国政府が日本に向けて同国との貿易関係を結ぶため、合衆国大統領の日本皇帝宛ての書簡一通を携え、かつ数人の日本人漂流民を連れた一使節が派遣させるとのことであり、また、北アメリカ人の為に、日本の一つの適切な港に石炭を貯蔵できるための許可を求めるとのことですが、その港を彼らは、彼らがカリフォルニアとシナとの間に計画している蒸気船の航行にとって必要としているとのことです。

予想される軍艦名は、軍用蒸気フリゲート艦サスケハンナ、コルベット艦サラトガ・プリマス他二艦が現在シナ海域にあり、最近受け取った幾つかの報告によれば、同海域には蒸気艦ミシシッピー、プリンストン、ブリック艦ペリー、運搬船サプライがいて、遠征指揮官は准将オーリックから准将ペリーに代わったとのことです。

第一次・第二次ペリー来航とほぼ合致しています。

当時のサンフランシスコ、おびただしいマストが見えます

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