開国の父 老中・松平忠固

徳川斉昭/一橋慶喜

【138】阿部は斉昭の『実績』を評価≫

阿部と斉昭はどうして近しいか

阿部正弘を支える剣の一人、御三家・水戸藩主・徳川斉昭。

どうして阿部と斉昭は近しい間柄となったのでしょうか。

元々は斉昭が行った水戸藩の藩政改革があります。

水野忠邦の天保の改革に先駆ける形で、藩内の農政や軍事、教育、人材登用などを改革し、実績を収めました。

阿部正弘という人は、人材をその人物の「口先」ではなく「実績」で評価します。

水戸藩内で、まさに日本の目指すべき改革を実現させた斉昭を高く評価したからなのは間違いありません。

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【141】【一橋派 vs 南紀派】ではなく【政権 vs 政権交代派】≫

一橋派 vs 南紀派 という構図ではない

日米両条約締結の時期の政治体制は、今でも下記のように語られます。

一橋派 vs 南紀派

〇一橋派

阿部正弘、水戸徳川斉昭、松平慶永(春嶽)、島津斉彬、尾張徳川家、宇和島・土佐藩主など

〇南紀派

井伊直弼、松平忠固、紀州徳川家家老、溜間大名、譜代大名

しかし、このサイトは条約締結時にはそのような構図はなかったと考えています。

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【146】一橋慶喜、誕生≫

斉昭7男が一橋家継承、慶喜に

弘化3年(1847年)9月1日、斉昭の7男・七郎麿が一橋家を相続します

一橋慶喜、最後の将軍・徳川慶喜です。10歳。

これも阿部正弘によって計画され、滞りなく実行されました。

忠固・斉昭・斉彬の3本の矢に加え、将来の将軍さえもメイクするのですから、なんという人でしょうか。

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【167】徳川斉昭が入閣、忠固は反対≫

徳川斉昭、入閣

ペリーが離日して約一か月後、御三家水戸家の徳川斉昭が入閣します。

これは政権にとって劇薬、諸刃の剣でした。

なぜなら、『御三家が内閣に入れば政治的権力を握ることになる、それは将軍家と御三家水戸家との間に権力闘争を誘発することになる』。

それは、家康が絶対に避けるために厳命した祖法であり、鎖国(そもそもこの当時鎖国という言葉も意識もない)よりも大事にすべき幕府の祖法だったからです。

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