ペリー/アメリカ
【161】アメリカの沖縄政策はペリー当時から始まった≫
浦賀来航前に琉球へ
あまり知られていないかもしれませんが、ペリー艦隊は浦賀に来る前に琉球に寄っています。
1953年5月26日(嘉永6年4月21日)、那覇に入港します。
首里城訪問を拒否されたペリーは武装して進軍、入城を果たします。
下記の画像はその時のものですが、ペリー一行は料理を歓待されたものの、琉球が用意したもてなしは清国からの冊封使に対するよりも下位の料理で、暗黙に拒否の姿勢を示しました。
【163】ペリーの知られたくない事実を知っていた日本≫
最重要機密を知っていた幕府
ペリーは国書を渡すことに成功すると、来航からわずか9日間で日本を離れます。
これは長期滞在するだけの物資がなかったからで、この事実はペリーの個人日記にだけ記されたトップシークレットであり、公式文書にもなければ当然ながら相手(日本)には秘密のことでした。
しかし、幕府はこの事実さえつかんでいたのです。
当時の日本政府はペリーに対し互角以上の交渉をしていたことが分かります。
【165】第一次ペリー来航まとめ≫
ペリー来航トリビア
記事以外のペリー第一次来航トリビアをまとめます。
・出会いの第一声は蘭通訳:堀達之助「I can speak Dutch !」
・初対面は浦賀奉行与力:中島三郎助と堀、副官コンティと蘭通訳ポートマン
・交渉に当たった与力:香山栄座衛門をアメリカ側は浦賀奉行と認識していた
・日本側は中国語・オランダ語に堪能なのはもちろん、科学の一般原理や世界地図におけるニューヨークやワシントン・イギリス・フランス・デンマーク・その他欧州諸国の場所を知っていた
・艦内見学の際、大砲を見て「パクサンズ砲」と言い当て、蒸気機関を見ても驚きの色を見せなかった
・ペリーは「猿島=ペリー島」、「夏島=ウェブスター島」「打ち沈め線(観音崎~富津岬)=ルビコン岬」「根岸湾=ミシシッピ湾」と名付けた
【164】最も印象的なペリーの日本評≫
滞在8日目の日記より
川を遡ると、外国人の姿を一目見ようと岸にやってきた大勢の住民に出会った。
あらゆる身振り手振りで歓迎の意を表してボートに向かってあいさつし、すすんで水やおいしい桃をくれる住民もいた。
政府船が二、三艘ついてきたが、乗り込んでいた役人たちは我々を歓迎して訪ねてきた。
そのうちに互いに友情が芽生えてきて、アメリカ人は日本人と一緒に煙草を交換し合って飲むほどになった。
我が士官たちはこの親切なもてなしのお返しに、知り合ったばかりのホスト達に拳銃を見せてやり、撃ってみせると日本人は非常に驚き、かつ喜んだ。
このように大変なごやかに交流して楽しんでいる間、日本人は非常に愛想よく、おおらかにもてなしてくれた
【166】ペリーが去った直後に将軍死去≫
将軍・家慶死去
ペリーが日本を去ってからわずか10日後、12代将軍家慶が亡くなります。享年61歳。
家慶を語る上で外せないのが、父・家斉との関係です。
家斉は50年間も将軍職にあり、45歳で家慶に将軍を譲った後も4年後に死ぬまで政治を握り続けます。
「賄賂が公認されるほど腐敗した政治・家斉の重臣たちを一掃した」これが家慶の核心たる事業と言えるでしょう。
そして、他でも述べましたが、若干24歳の阿部正弘を老中首座に登用した「人物を見る目」は卓越したものがあると、個人的には高く評価しています。
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