開国の父 老中・松平忠固

日米和親条約

【109】孝明天皇は和親条約了承の勅旨を出していた≫

帝は和親条約に対して了承の勅旨

日米修好通商条約が評価されない最大の理由として、『無勅許』があります。

「帝・天皇の了承を得なかった」ということです。

ですが、修好通商条約をさかのぼること3年前、日米和親条約締結時、帝は了承していたのはあまり知られていないのではないでしょうか。

安政2年(1855年)9月18日、禁裏付の都築峰重は、関白・鷹司政通に米英露三国との条約書写を交付して外国事情を陳述します。

了解した関白は天皇に奏聞、天皇は幕府の処置について満足の意を表され、12月27日幕府に対し下記の勅旨が正式に伝えられました。

 

 

 

孝明天皇の最高の評価

 

魯西亜、英吉利、亜米利加の条約を叡覧に供したるに、幕府従来の処置振殊に叡感あらせられ、宸襟を案じたまう。

老中の苦心、主職の尽力、深く宸察あらせらる。

開国への布石/土居良三

 

若き孝明天皇は「老中の苦心、主職の尽力」を最高に評価していたのです。

 

 

 

 

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