開国の父 老中・松平忠固

【101】江戸幕府が既に『大日本帝国』を名乗っていた≫

『大日本帝国』を初めて名乗ったのは

大日本帝国と言えば、明治になってから名乗り始めた、と思われると思います。

大日本帝国憲法が発布されたのが明治になってからなので、それは当然かもしれません。

ですが、江戸時代に既に対外的に日本は『大日本帝国』を名乗っていたんです。

初めてその名が外交文書に登場するのは、ペリー来航の年である1853年(嘉永7年)。

そうです、松平忠固が老中としてペリーと外交折衝していた時です。

 

 

 

ペリーと条約を結んだ年に

ペリー提督と日米和親条約を結んだ5か月後の8月23日、日本はイギリスとの間で日英和親条約(日英協約)を結びます。

その時の協約の原文は以下の通りです。

 

此度大ブリタニア王国ノ軍船ウィンセストル総督ヤーメス、スティルリンニ相会シ、長崎奉行水野筑後守、御目付永井岩之丞、大日本帝国政府ノ命ヲ請ケ

一、薪水食料等船中必用ノ品ヲ弁ジ、又ハ破船修理ノ為メ・・・

(外国関係文書之七ノ一五一)

 

 

 

大日本帝国の由来!?

大ブリタニア王国、すなわち大英帝国・イギリスのことですが、大日本帝国の命名はこの大ブリタニア王国から来ているのかもしれませんね。

グレートブリテンよろしく日本の前に『大』をつけ、日本は帝の国だから『帝国』。

当時世界の7つの海を支配していた超大国・大ブリタニア王国にも引けを取らないかのような、誇らしいネーミングですね。

 

 

 

超大国たる英国とも対等に

この時点の政府・阿部正弘・松平忠固政権は、英国が支配する世界情勢を熟知していました。

ペリーが長崎に来ることも想定し、優秀な官僚たる水野忠徳と永井尚志を出島に派遣していた訳ですが、イギリスが植民地は清国でお腹いっぱいで日本には大して興味がなかったという事情もあったとはいえ、世界の超大国と対等な関係で条約を締結したことは驚愕すべきことです。

彼らの成果が素晴らしいと共に、それをなさしめた人事を行った首脳陣も高く評価されてしかるべきではないでしょうか。

 

 

 

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