開国の父 老中・松平忠固

【140】ペリー来航8年前に外国船が浦賀に公式入港した≫

アメリカ商船の浦賀入港

阿部が老中首座になったと同時に、重大な事件が起きます。

それがこの「アメリカ商船・マンハッタン号、浦賀入港」です。

ペリー来航の8年前、この時点では外国船に対して「打ち払い令」から「薪水給与令」に移行していたとはいえ、異国船が入港できるのは長崎だけのはず。

江戸湾内である浦賀への入港など根本的にあり得ない話だし、一体全体どういうことなのでしょう。

ですが、この事件を知ったら、ペリー来航も日米和親条約締結も自然な成り行きと感じる、それほど重要な意味を持つのがこの事件です。

 

 

 

クーパー船長の勇気と決断

マンハッタン号は喜望峰周りで千島沖で操業中、日本人漂流民2隻、計22名を救助します。

クーパー船長は漂流民を受け入れず砲撃されたモリソン号のことなど日本の事情をよく知っていました。

しかし、彼は自らの仕事を放棄してでも、そして自らの身の危険を冒してまで、日本に漂流民を送り届ける決意をします。

それは漂流民を日本に帰してあげたいという温情と、それに加えて日本に対してアメリカはイギリスやロシアとは違った文明の新しい国だということを知ってもらいたい、という思いがあったからです。

そして、いきなり江戸湾に現れるのでなく、まずは千葉県勝浦市に漂流民を上陸させ、そこから浦賀奉行に届け出るという周到な作戦を取ります。

 

 

 

阿部正弘と将軍家慶の決断

その届は浦賀奉行から政権上層部に伝わりますが、諮問した評定所一座は定法通り、長崎へ行きオランダ人か中国人に引き渡せという判断をします。

それを特例として、阿部正弘が将軍・家慶の了承を取り、浦賀で受け入れる決定をしたのです。

モリソン号への砲撃から8年、蛮社の獄の悲劇から6年。

阿部正弘もクーパー船長の命がけの行動に心動かされたであろうし、将軍・家慶も棄民は恥ずべきこと、徳の高さを見せるという意味でも、この異例の処置を了承したのだと思います。

そして史上初めて、公式に外国船を江戸湾に入港させ、数々の日本特産の贈り物を贈呈するのです。

 

 

 

阿部正弘の心の中で芽生えたもの

身の危険を顧みず我が国国民を助けてくれたアメリカ人、アメリカという国。

イギリスから独立を勝ち取ったこの新しい国に対する阿部正弘の印象が、大きく刻まれたに違いありません。

アメリカなら、開国する相手になり得るのではないか、と。

この3か月後に、外国に対する専門部署『海防掛』が創設されます。

 

 

 

 

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