開国の父 老中・松平忠固

【108】忠固が井伊直弼を大老にした≫

4月22日、忠固が大老要請

忠固が井伊直弼を大老にした -

このことが、水戸にある常盤神社の資料に記述されています。

 

井伊直弼は安政五年の四月二十二日夜、松平忠固老中の訪問を受けます。
この二十二日というのは、次の日は井伊家の結婚式だったのです。
その結婚式というのはどのようなものだったかというと、直弼の娘に千代姫というお姫様がいました。
その千代姫が、水戸の分家で義公の兄頼重から始まる高松の松平家に、頼胤という人がいます。
その息子の頼聰と二十三日に結婚することになっていたのです。
松平忠固が訪問したのは二十二日なのですが、大老に御就任を願わしく存じます。
何とかこの際は井伊様が大老になって貰わなければ困ります。というので、二十三日の婚姻の儀式から全部キャンセルしまして江戸城に登城します。
井伊は安政五年の四月二十三日に大老に就任いたします。
そして水戸をチクリチクリと苛めにかかるのが、この松平頼胤と親戚関係になっておりました井伊直弼なのです。

常盤神社/水戸藩の悲劇

 

 

 

大老就任の3日、2日前

年表④にも記していますが、その2日前・20日には老中首座・堀田正睦が京都から帰府しています。

修好通商条約の勅許を得る為に京都へ行ったわけですが、水戸家ら政権交代派・井伊家ら旧態依然派双方の画策により勅許を得られず手ぶらで帰ってきたのです。

そして、翌21日には勅許を得る為には水戸家斉昭に取り入る必要があるとして、斉昭の取り巻きの「慶永(松平春嶽)を大老に」と将軍・家定に進言してしまうのです。

 

 

 

忠固の決断力・実行力

この目まぐるしいスケジュール感こそ、忠固の決断力と実行力を示す一つだと思います。

21日に将軍まで話が行ってしまったので、その人事案を覆すために翌22日に直弼に大老要請をし、23日に直弼の大老就任が発表されます。

水戸派である慶永が仮に大老になってしまったら調印を待つのみとなっていた修好条約が棚上げになってしまう ー

政権事情も知らず人脈もない直弼を「条約調印を条件に」大老要請した ー

それが実態ではないでしょうか。

 

 

 

水戸家の資料である信憑性

上の常盤神社の記述は、水戸家に近い神社です。

水戸家といえば尊王の総本山、そこの神社に残されている記述でありますし、そもそも水戸家は反体制派だったわけで、この日程をはじめとする記述には、彦根藩の資料と違って偏向はないと私は高く評価しています。

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

開国の父 老中・松平忠固

PAGE TOP

© 開国の父 老中・松平忠固史 2024 All Rights Reserved.