開国の父 老中・松平忠固

【122】反対と妨害の中、西洋式砲術を実演≫

長崎の幕臣・高島秋帆

長崎出身の幕臣・高島秋帆は出島のオランダ人を通じて、自ら西洋式砲術を学び高島流砲術を完成させます。

そして、1841年(天保12年)5月に江戸・西郊外の徳丸が原で幕府幹部を前に公開演習を行います。

西洋船の来航が頻発し、アヘン戦争が勃発する情勢だったこととはいえ、「攘夷」などという言葉さえない、夷狄のものを使うこと自体けがわらしいと言われる時代ですから、相当の反対と妨害があったものと推察されます。

 

 

 

高島平

この後すぐ、高島秋帆も蛮社の獄で蘭学者たちが弾圧されたと同じように投獄されます。

それは投獄の記事で検証するとして、ですけど秋帆自体は慶應2年まで存命(72歳)していたのですね。

高島秋帆が実演した江戸の西郊【徳丸が原】、現在は東京都練馬区【高島平】と言われています。

 

 

 

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