開国の父 老中・松平忠固

【139】忠固、老中に向かって大坂城代へ出世≫

忠固、大坂城代となる

忠固は寺社奉行復帰から2か月余りで大坂城代へ出世します。

大坂城代は出世レースの頂点・老中の最終段階。

老中首座の阿部正弘は、明らかに忠固を自分の内閣に迎えるために、寺社奉行に復帰させ続けざまに大坂城代に出世させたと思われます。

自らは特例的な形でいきなり老中になってしまったので、忠固には大坂城代を経てという通例に則って、政敵の批判を防ぐという面もあったと思います。

忠固の大坂入城行列図

 

 

忠固の大阪での実績

忠固の公式な任務は二つ。

一つは30年停滞している大坂城の改築で、赴任してすぐに取り掛かります。

二つ目は、海岸警備の巡検で明らかに頻発する外国艦船に対する対策でしょう。

しかし、忠固が実績を上げるのは、この公の任務だけではありませんでした。

上田藩の産物である生糸からなる織物を天下の台所・大坂で販路確立し、『城代縞』として声価を高めるのです。

この手法が、やがて横浜開港直後から始まる生糸貿易に続いていきます。

 

 

 

 

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