開国の父 老中・松平忠固

6月2019

【153】島津斉彬の輝かしい実績≫

島津斉彬の功績

島津斉彬が薩摩藩主となったのはなんと45歳。

それまで父・斉興が家督を譲らなかった為で、異国船襲来に際して同志である斉彬を藩主にすべく阿部正弘が介入して藩主にした、といういきさつがあります。

そして亡くなったのは50歳、実質5年しか活動していませんが輝かしい実績を残しています。

・洋式帆船、反射炉、溶鉱炉の建設

・ガラス、ガス灯などの製造

・ジョンマンジローの保護

・西郷隆盛の登用(これが何よりすごい)

・日本最初の国産蒸気船『雲行丸』開発成功

・日本人で初めて写真を撮ったのも斉彬

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【152】直弼に関する同一史料の記述が東大と博物館で違う≫

直弼に関する史料は信ぴょう性が低い

忠固が老中となって2年後、井伊直弼が36歳で彦根藩主となり政治舞台に登場します。

直弼は31歳で初めて江戸城に上府し人脈がない、そして非常に後ろ向きな性格、ということはこれまで述べました。

ここでは直弼にまつわる史料の信ぴょう性について述べます。

このサイトの阿部正弘評も福山藩家臣が残した史料を基にしたものも多く、関係者が自分の殿様を贔屓目に書いてしまうのは前提としなければなりませんが、直弼関連についてはそれを勘案しても信ぴょう性に甚だ疑問があります。

 

 

 

東大と彦根城博物館の同じ写本の記述が違う

直弼の側役・宇津木六之丞が直弼没後に中心となって編纂した「公用方秘録」には写本が幾つかあります。

東京大学史料編纂所の「維新史料綱要データベース」にある「公用方秘録」の記述分には井伊直弼いわく「最後は、自分1人で責任を取る」と言ったと書いてある。

しかし、彦根城博物館の同じ史料には「諸大名の意見聴取の上の決定であれば良いが、さもなければ世間でかれこれ異論を唱え、天皇の逆鱗にも触れる」と宇津木が言うと、井伊直弼は「それに気付かなかったのは無念だ」と言った、と書いてあるといいます。

この彦根城博物館の史料を良く知る歴史学者は、明治政府に提出された、すなわち東京大学史料編纂所にある史料は、この部分が改竄され提出されたものらしい、というのです。

 

詳細はこちらのサイトをご覧いただくとして、掃部山の銅像の話をはじめ、基本的に直弼に関する史料は信用できません。

 

 

 

 

【151】第2のマンジロー・音吉≫

幸運のマンジロー、不遇の音吉

第2のマンジロー・音吉を知っていますか?

ジョン・マンジローはご存じと思います。

子供の頃に遭難して太平洋で操業していたアメリカ捕鯨船に救助され、そのまま米国に渡って教育を受け、青年になって日本に帰ってきて日本の開国に際し助力した人物です。

マンジローが帰国したのが琉球で、しかもその時の統治者が島津斉彬だったというのがマンジローの幸運でした。

英明な斉彬だからこそマンジローの価値を見抜き、中央の阿部につなげ幕臣に取り立てられることとなります。

一方の音吉、マンジローよりはるかに前なので第2というのは正確ではありません。

音吉もやはり遭難し米国船に救助されるわけですが、音吉が帰国しようとして起きたのがあのモリソン号事件なのです。

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【150】忠固の左腕・井戸覚弘≫

長崎奉行・井戸覚弘

忠固の右腕が勘定奉行・石河政平だとすれば、左腕は長崎奉行・井戸覚弘』と言えます。

井戸覚弘は忠固が大坂城代へ昇進した同じ年に、目付から長崎奉行に昇進します。

そして忠固が老中となって翌年に起きた事件が『プレブル号事件』であり、その対応をしたのが井戸です。

これは、ジェームス・グリン中佐を艦長とする米国戦艦プレブルが長崎に来航、米国人遭難者13名と日本で初めて英語を教えたラナルド・マクドナルドを引き取った、という事件です。

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【149】『蚕都・日本一』は忠固の手腕≫

『蚕都日本一』は忠固の手腕

忠固の領地、長野県上田は養蚕の産地です。

忠固が領主であった天保年間(1830-1843)には、冥加金(領主に納める税金)200両を3年間納入し『本場』の地位を獲得、名実ともに日本一の生産地となっています。

禁絹令(田畑での桑の栽植を禁ずる法律)の敷かれる中で、河原や山腹に栽植することで桑園開発を行ったことを踏まえると、「日本一」の称号はまさに忠固の手腕と考えられるのではないでしょうか。

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【148】井伊直弼の性格≫

井伊直弼の性格を象徴する『忍一件』

井伊直弼を象徴する事件『忍一件』をご紹介します。

彦根藩・井伊家は御三家を除く全国大名の筆頭という家柄で最高位7家は『溜間』という家格にあたります。

その溜間の中でも上位3家(彦根・会津・高松)は常溜と言われ、下位4家(姫路・松山・桑名・忍)は飛溜と言われます。

事件は嘉永三(1950)年、直弼が彦根藩世子(世継ぎ)となって4年目にそれは起きました。

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【147】忠固(忠優)、ついに老中に≫

忠固、遂に老中に

弘化から嘉永元年(1848)となり、忠固(忠優)がついに老中となります。

その時の閣僚・老中の布陣は以下の通り。

阿部正弘 29(1843 – 1857)
牧野忠雅 49(1843 – 1857)阿部と親戚、阿部の守役的存在。
戸田忠温 44(1845 – 1851)阿部と親戚(阿部の妹が妻)51年に死去、後に久世
松平乗全 53(1845 – 1855、1858 – 1860)阿部と親戚(父の妻が正弘の叔母)、忠優の守役的存在。
松平忠優 36(1848 – 1855、1857 – 1858)

忠固以外は阿部の親戚、完全なる阿部正弘内閣の誕生です。

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【146】一橋慶喜、誕生≫

斉昭7男が一橋家継承、慶喜に

弘化3年(1847年)9月1日、斉昭の7男・七郎麿が一橋家を相続します

一橋慶喜、最後の将軍・徳川慶喜です。10歳。

これも阿部正弘によって計画され、滞りなく実行されました。

忠固・斉昭・斉彬の3本の矢に加え、将来の将軍さえもメイクするのですから、なんという人でしょうか。

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【145】琉球・フランス条約で開国は始まった≫

ペリー来航7年前に開国は始まった

開国はペリーが来て始まったのではない。

その7年前の弘化3年(1846)琉球とフランス間の通商条約締結で始まったのだ -

という説があります。

この年、フランス海軍司令官セシーユ率いる軍艦クレオパトル・ヴィクトリューズ2隻が琉球に現れ、通信・貿易を強硬に求めます。

弘化元年(1844)に仏軍艦アルクメール、翌年にはイギリス測量船サマラング、さらに翌年の前年にはベッテルハイムが那覇に上陸・居住、入れ違いに仏軍艦サビーヌ来航と、切迫した中での1846年でした。

琉球は薩摩藩の支配下にあり、これにより開国の歴史は始まったのだ、ということです。

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【144】アメリカ最初の公式使者、ビッドル参上≫

ペリーの前任者が開国要求

日本人漂流民を救ってくれたクーパー船長のマンハッタン号が浦賀を出た翌年、2隻の船が浦賀にやってきます。

今度は商船ではありません、軍艦です。

しかも、東インド艦隊司令長官ジェームス・ビッドル率いる艦隊でアメリカの公式使節です。

つまり、ビッドルはペリーの前任者であり、ペリーと同じく開国要求します。

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